砺波の里は古来より農耕を中心として栄えてきた土地柄です。その為、越中開拓の祖神を祀る髙瀬神社には農事に関する祭典が数多く伝わっています。
その祭典の中でも、この祈年穀祭の起源は特に古く、天武天皇の御代まで遡ります。当時、大変な病虫害により農作物に深刻な被害を齎しました。天武天皇はこの事を痛く御心配になり、天武天皇9年(680)、勅使を差遣し幣帛を献上、事態の収束と豊作を御祈願された事がはじまりとされています。
現在の形になったのは、明治19年です。
その時も害虫が大量発生し、農民がその惨状を悲嘆し、対策を講じていました。
そこで、当時の相馬朔郎旧礪波郡々長は郡内の全戸長と協議し、郡長自ら奉幣使となり忌火を奉って祭詞を奏上し、その忌火を郡内全戸に分与して田毎に点火し、害虫誘殺を行いました。各村無数に奉られた灯明の様子は、満天の星の如き輝き光景であったと云われています。
この神威と農民の熱誠によって大豊作を迎え、十一月に特別の感謝奉告祭を斎行しました。
その後も、歴代郡長が奉幣使として参向されましたが、郡制廃止後は、幾多の行政機関や農業関係機関の変遷により、現在は砺波地区農業協同組合協議会長が奉幣使となって参向されています。
現在では、各農協本店に御神火を奉持した御神輿が巡幸し、豊作と農家の繁栄を祈念する祭儀を斎行しています。